綺麗な収納術、募集します。
ハローハロー世界。
何だか過ごしやすい気候の本日は、個人的休日とします。
どうもこんにちは、黒乃香丹です。
本日は、趣味でもあるスケッチにまつわる話を少々、させてくださいまし。
日々溜まりゆく、スケッチの描かれた紙とその準備物。
そしてそれが故に最近頭を悩ませているのが、収納である、というお話を。
そう、最近作業場を整えるのに躍起になっているんですが、細かい文房具とか、どうやって収納したらいいのか全く分からない!
画法柄、木材とかパネルとか、絵具とか、それはもう細々と沢山仕分け対象の物品で溢れているもので、世の絵描きはどうやって画材を片付けておるんや、、、と、すっきりした収納を目指してネットサーフィンが捗る日々←遠い目
でも、実際のところ、殊更絵に関してだけは、かなり収集癖があるような気がしていんですよね。
使えるかもしれない、と思うと、つい何個か買ってしまうという悪癖があります(苦笑)
例えば、本番の焼き絵の構成を考える前に、よくスケッチを描くんですが。
息抜きでもあるし、出来上がったスケッチをパソコンに取り込んで、何枚か組み合わせて本番の構成を考えたりするからです。
あと純粋に、後で溜まったスケッチを眺めるのが至福だったりもします←
ペンで描くスケッチの出来がいいと、独りニマニマして満足感とかに浸ったりしながらグッズを作ったり、、、。
うん、まあ。そんなことはいいんだ、閑話休題。
スケッチを描くにはペンが要りますね。
あと適当な大きさの紙。
そして鉛筆と消しゴム、と。
ただそれだけあれば事足りる筈なのですが、一本だけでは切れた時面倒だ、何本かペンをストックしなければ、とか。
A5の画用紙は使いやすいな、なくなったら困るから、これは2冊買っておこう、とか。
出先でも描けたら楽しいから「白い絵本」にスケッチを描こう。なら2冊は要るな、何冊も描けたら壮観に違いない、とか。
描いたら収納するためのファイルが必要だな。何種類かに分類できるように多めに用意しよう、とか。
実際に描く行為よりも、描くためのツールのストックと、描いたあとの収納に気をやることが凄く多い!
溜めたいから描いているのか、と問いたくなるレベルでストック品と、ファイルなどの文具が溜まっていく。
そして、それをキレイに収納することに気を取られる。
なんとまあ、目的がすげ変わっているような、と言われてしまっても仕方ないような状況から、抜け出せない日々です(苦笑)
実際、本当に溜まったら壮観なのかもしれませんが。
展示の度にスケッチを販売してみたりするので、本当のところは全く溜まらない。
「白い絵本」という文庫本サイズの画用紙でできた本に描いているスケッチも、実際は別紙に描くことが多くて、数ページしか埋まっていません。
中途半端になるなら最初からファイリングだけすればいいのにと思うんですが、”埋まった時”を想像すると、どうしても滾ってしまって、買ってしまうんですよね。
元々副産物のはずのスケッチ。
実は結構気に入っているが故の悲劇な気がします(苦笑)
そうして今日も今日とて、埋めるために、息抜きで、楽しみで、そして何か他のものに利用するためにも、スケッチをとりまくり一人満足する、香丹がここにいるのでした。
(ああ、また分類のための文具が溜まっていく…)
もし同じような癖があったり、こんないい収納術があるよーなどあったらぜひ、コメントなどで教えください。
お待ちしてます。切実に。
ではでは、また。
アディオス♪
イメージでぼくらはコミュニケーションをとっている。
ハローハロー世界。
昨日は低い雲が空を覆って、強くなり始めた日差しを遮ってくれていたけれど。今日は打って変わっての澄み渡る青空。爽やかな風が昨日の雲の代わりをしているようですね。
感謝感謝。
どうも、今日も今日とて自分を生きる、黒乃香丹です。
さてさて、突然ですが、皆さんは死んだらどうなると思います?
誰だって、一度は考える疑問だと思うんですよね。これ。
それによって死生観ってものが形成されて、自分の生き方も変わってくる。
死が生を変える。
だから、きっと、一度は考える。
そういうものだと勝手に思っていたりします。
まさに諸説ありすぎて、100人いたら100通りの答えが返ってくるかもしれない。
そして、その何通りもある考えのもと、作られた作品も数多くありますよね。
ぼくの今まで描いた作品たちも、例にもれずその類ですが。
イメージの具現が、また誰かのイメージの礎になる。ってのは、めちゃくちゃ面白いし、素敵だなって思うので、今日はその話をしましょう。
死んだらどうなるか。
その疑問に答えようとするとき、きっと、過去の記憶からあらゆることを推察して、答えを出すと思うんです。
本当のところは知らないけれど、あの映画ではそういう設定だった、とか。
昔読んだ本ではこう書いてあったとか。
それが自分の中で刺さっている、本当のような気がした、だから抜粋して、或いは付け足して、自分の答えとするような。
本来死なんて本当に分からないことだと思うんですよ。
誰も死んだことなんてないし、死んだ人の肉体は口をきいてくれないので、これはもう永遠の謎なわけです。
だから怖いのだし、だから憧れてしまったりもするのですし。
でも、創作物ではあらゆる答えが出ている。
それは或いは、こうだったらいいな、という夢みたいなものかもしれない。
或いは、人生の教訓のような、戒めの意味をもつものとして描かれているかもしれない。
しかしいずれにせよ、想像し、創造しうることで、人は答えを出してきたのでしょうね。
死なんてある意味物騒なテーマじゃなくっても、例えば感情、例えば多様性、例えば経験、例えば、夢。
そんなものを不特定多数の他者と共有していく行為。創作。
それはもう究極のコミュニケーションかもしれない。
小説、漫画、アニメ、映画、エッセイ、詩、音楽、パフォーマンス。なんでもいい。
ぼくたちは誰かが触れたそれらを体感することで、そのイメージとコミュニケーションをとっている。
そして、それが受け入れがたければ「面白くない」、心に深く刺されば「面白い」となって、別の誰かとのコミュニケーションへとつながっていく。
何かを伝えたい。
何かを感じたい。
ってのは、もはやぼくらの本能で。イメージをもとにイメージを膨らませて新たにコミュニケーションのキャッチボールをはかるのは、ぼくたちの持って生まれた才能なのかもしれない。
最低限の文化的生活ってのが保障されているけれど、文化的ってのが入っているのは、ぼくらの本能を妨げないためかもしれない、なんて。大げさかな。
ぼくは小説がものすごい好きだし、アニメだって凄い好きだ。
そこにぼくは答えを求めて、違う人の意見や世界観を求めて、図書館に出かけたりするし、契約中の動画アプリを開いたりする。
そうして世界が広がっていくのは面白く、そうしてぼくの絵につながっていく。
ぼくの絵が、果てはどこかの知らない不特定多数の誰かと、秘密の会話をしているかもしれない。
そんなことは、ぼくは知らないんだけど、それでいいのだ。
さあ、創作しようぜ。
個であるぼくらは、何かにしないと伝えられないのだから。
なんて。
今日もぼくは本を一冊、「西の魔女が死んだ」を読破したことでそんなことを思ったのでした。
本編とは全く関係ないけれど。
さてさて、では今日はここまでといたしましょう。
次回はまた数日以内に。
アディオス。
一人称と、絵に対する想いについて話そうか。
ハローハロー世界。
こちらは何とも綺麗な青空で、昼には真夏並みの暑さになるなんて予報も出てますよ。
冬生まれなのに夏の方が元気。
どうもこんにちは、黒乃香丹です。
突然ですが、皆さんは一人称って何を使ってますか?
ぼくは、「ぼく」を主に使いつつ、公共の場では「私」を使っています。
一人称って面白いですよねぇ。
日本語においてそれはもうたくさんあって、どの一人称を使うかによって個性まで表せるレベル。
でも、どの一人称にもジェンダー的イメージが確立されていて、性別、偏見とは切っても切れない関係性です。
ぼくは、ぼくには、概念においての性別はありません。
好きになる人の性別なんて全く気にしない。
自分に対しても、性別というものを意識していないので、求められると少し困る。
そんな人間です。
まあ、こんなことを言っても理解できるひとは一握りかもしれないので、あまり深く考えず、ふーん、くらいにとどめておいてください。
つまり一人称の話をして何が言いたいのかというと、ぼくは、女性らしいとか、男性らしいとか、そういうジェンダーにおいての偏見にひどく敏感に嫌悪を感じるということです。
だから、まるで抗うかのように、ぼく、を使っているのだと思います。
女性だから甘いものが好きとか。
男性だからリードしなきゃいけない、とか。
本当に心底くだらないと思っていて。
ぼくから見た人は、そんなに簡単に分類できるものでは決してなくて、その人個人を見ること、知ることで精いっぱいです。
ぼくにとって人は、性別問わず、ただの人です。
フラットに、個人。
その性格に惹かれたり、見た目に惹かれたり、それは様々ですが、その魅力は、その人だからにじみ出るものです。
性別に出番はありません。
だから、というか、、、、。
ぼくは人物画が、実はひどく苦手なのです。
そこにつながるんかーい!と思った人もいるかも。
イエス。そこにつなげるために、先の話をしたのだ!
人が嫌いなわけではなくて、美人画として描かれるのは女の人だけ、とか。
そういうのが、ダメなのです。
そして、自分が魅力的に思った人しか描きたくはないが、その人を描くことで、そういう目線に晒されるのも嫌だ。
と、思ってしまう。どうしても。
なので、ぼくは人を描けません。
イラストとかは別ですが(理想で描けるので)、焼き絵は無理かも。
じゃあどうして動物を描くのか、動物なら描けるのか。
動物にだって性別はあるじゃないか、見た目にだって差がある種類も居る。
そう思う方もいるかもしれない。
本当にそうですね、って感じなのですが。
え、だって、動物って性別によって、可愛い可愛くないとか、無くない?
ってのが本音ですw
人間ってのとは違って、動物は自分とは全く別の生き物です。
そこに性があろうとなかろうと、ぼくたち人間には関係ない。
だから等しく面白いし、愛しいし、可愛い、になるのではないでしょうか。
それに、ぼくは単にものすごい動物が好き。
ジェンダー的概念が持ち込まれないっていう面も確かに好きの要因になっているかもしれないけれど、多分、純粋にただ好きなのだと思います。
可愛いって思えて仕方ない。
だから、ぼくは動物を主に描く絵描きなのです。
好きなものを好きだと叫んで。
表現して。
それで許される社会になればいい。
そんなことをずっと思っています。
好きなものを、いいと思うものを否定されず。
そりゃそれが苦手な人もいるだろうから、そういう人はそっと離れて、発言するのはいいね!って思った人だけ。
そんな優しい世界なら、ぼくがジェンダーについて悩む必要も、無いのかもしれない。
なんて、世迷言ですかね。
ではでは、本日はこんなところでお終いにしましょう。
また数日以内にお会いできたらいいですね。
アディオス!
はじめましてこんにちは
ハローハロー世界。
こちらは午前土砂降りで、午後から凄い晴れてる空模様を楽しんでます。
どうもこんにちは、黒乃香丹です。
何度かブログに挑戦しては挫折しているのですが、また性懲りもなく地道にスタートしてみようと思います。
自己紹介がてら、自分の手掛けている画風について書いていきますね。
この記事を発見した人は(多分人だと思うんだけど、違ったらすまない)、ウッドバーニングというものをご存知だろうか。
ウッド=木
バーニング=燃やす、焦がす
ということで、木の板を”はんだごて”で焦がして絵などを描く技法なのですけど。
木が焦げた色って、セピアのような何とも言えない綺麗な色で、ペンとも絵具とも違うその質感に、惚れ込んじゃった人間、それがぼくです。
画像の絵を描いたのもぼくです。
手に持ってるのは専用のはんだごての、マイペンαです。
おっと、一応ぼくという一人称を使っていますが、一応生物学上は女で、現在妊娠中の近い将来ママになるような人間です。
この話はまた今度、書くネタとして取っておきますね。
閑話休題。
ぼくはその、ウッドバーニングで主に作品作りをして、出来上がった絵を時々売ったりしています。
ウッドバーニングって名前自体は和製英語みたいなもので、正しくはPyrographyって言うらしいんですが、まあ、詳しいことは独学なのでぼくもよくわからん。
ウッドバーニング協会というところがあるようなので、詳しく知りたい方は調べてみてくださいね。
ウッドバーニングは焦げで描いた絵になるわけですけど、ぼくは焼くと、焼いた部分がはんだごての形に添って凹むことに注目して、新たな技法みたいなものを編み出しちゃったりしてます。
自由な発想が持ち味。
絵を見たい方はぜひ、
Twitterとか↓
黒乃香丹-KURONO KATAN- (@katan_k_) | Twitter
ホームページとか↓
を確認してみてくださいね。
一応Instagramもやってますが、あまり載せてはいないです(苦笑)
これから頑張ります。
焼き絵師なんて一応名乗っているのですが、ウッドバーニングという技法を取り入れることに躍起になっている、否、こだわっている、ただの絵好きです。
日記では、ウッドバーニングのこととかを含めた絵の話。
ぼく自身のこと。
些細なツブヤキみたいな、内容なんてないもの。
色んな事、書いていきたいです。
そうして、少し、黒乃香丹について皆さんに知ってもらって、ぼくの絵について考えてもらったり、認識を少し変えてもらったり。
あわよくば、誰かの楽しみになれたらって思ってます。
とりあえず、続けることを目標に。
これからどうぞ、よしなに。