KURONO KATANの日記

焼き絵作家:黒乃香丹のツブヤキぶろぐです。

イメージでぼくらはコミュニケーションをとっている。

ハローハロー世界。

昨日は低い雲が空を覆って、強くなり始めた日差しを遮ってくれていたけれど。今日は打って変わっての澄み渡る青空。爽やかな風が昨日の雲の代わりをしているようですね。

感謝感謝。

どうも、今日も今日とて自分を生きる、黒乃香丹です。

 

 

さてさて、突然ですが、皆さんは死んだらどうなると思います?

 

誰だって、一度は考える疑問だと思うんですよね。これ。

それによって死生観ってものが形成されて、自分の生き方も変わってくる。

死が生を変える。

だから、きっと、一度は考える。

そういうものだと勝手に思っていたりします。

 

まさに諸説ありすぎて、100人いたら100通りの答えが返ってくるかもしれない。

そして、その何通りもある考えのもと、作られた作品も数多くありますよね。

ぼくの今まで描いた作品たちも、例にもれずその類ですが。

イメージの具現が、また誰かのイメージの礎になる。ってのは、めちゃくちゃ面白いし、素敵だなって思うので、今日はその話をしましょう。

 

死んだらどうなるか。

 

その疑問に答えようとするとき、きっと、過去の記憶からあらゆることを推察して、答えを出すと思うんです。

本当のところは知らないけれど、あの映画ではそういう設定だった、とか。

昔読んだ本ではこう書いてあったとか。

それが自分の中で刺さっている、本当のような気がした、だから抜粋して、或いは付け足して、自分の答えとするような。

 

本来死なんて本当に分からないことだと思うんですよ。

誰も死んだことなんてないし、死んだ人の肉体は口をきいてくれないので、これはもう永遠の謎なわけです。

だから怖いのだし、だから憧れてしまったりもするのですし。

でも、創作物ではあらゆる答えが出ている。

 

それは或いは、こうだったらいいな、という夢みたいなものかもしれない。

或いは、人生の教訓のような、戒めの意味をもつものとして描かれているかもしれない。

 

しかしいずれにせよ、想像し、創造しうることで、人は答えを出してきたのでしょうね。

 

死なんてある意味物騒なテーマじゃなくっても、例えば感情、例えば多様性、例えば経験、例えば、夢。

そんなものを不特定多数の他者と共有していく行為。創作。

それはもう究極のコミュニケーションかもしれない。

 

小説、漫画、アニメ、映画、エッセイ、詩、音楽、パフォーマンス。なんでもいい。

ぼくたちは誰かが触れたそれらを体感することで、そのイメージとコミュニケーションをとっている。

そして、それが受け入れがたければ「面白くない」、心に深く刺されば「面白い」となって、別の誰かとのコミュニケーションへとつながっていく。

 

何かを伝えたい。

何かを感じたい。

 

ってのは、もはやぼくらの本能で。イメージをもとにイメージを膨らませて新たにコミュニケーションのキャッチボールをはかるのは、ぼくたちの持って生まれた才能なのかもしれない。

 

最低限の文化的生活ってのが保障されているけれど、文化的ってのが入っているのは、ぼくらの本能を妨げないためかもしれない、なんて。大げさかな。

 

ぼくは小説がものすごい好きだし、アニメだって凄い好きだ。

そこにぼくは答えを求めて、違う人の意見や世界観を求めて、図書館に出かけたりするし、契約中の動画アプリを開いたりする。

そうして世界が広がっていくのは面白く、そうしてぼくの絵につながっていく。

ぼくの絵が、果てはどこかの知らない不特定多数の誰かと、秘密の会話をしているかもしれない。

そんなことは、ぼくは知らないんだけど、それでいいのだ。

 

 

 

 

さあ、創作しようぜ。

個であるぼくらは、何かにしないと伝えられないのだから。

 

 

なんて。

今日もぼくは本を一冊、「西の魔女が死んだ」を読破したことでそんなことを思ったのでした。

本編とは全く関係ないけれど。

 

 

さてさて、では今日はここまでといたしましょう。

次回はまた数日以内に。

 

アディオス。